クレア・マッカーデル(Claire McCardell, 1905年5月24日~1958年3月22日)
クレア・マッカーデルは、「アメリカンルックの祖」と呼ばれる、ファッション業界では重要なデザイナーです。
また、レディース・スポーツウェアのファッションを手がけた最初のデザイナーでもあります。
マッカーデルは、1905年にメリーランド州で生まれました。
幼い頃からファッションに興味があったようで、母親のファッション雑誌を切り抜いて人形を作っていたときもありました。
そして、ティーンエイジャーになると、自分で洋服を作り始めます。
しかし、その当時の彼女は、まだファッションが大好きな一人の女の子に過ぎません。
彼女が本格的にファッションを学び始めると、その方向性は自身でも意外な方向へ向いていくことになります。
マッカーデルは、パーソンズ美術学校で、本格的にファッションについて学ぶことにしました。
学校生活2年目の時、パリにあるパーソンズで学ぶチャンスを得て、パリに向かいます。
彼女を初めとするパーソンズ・ニューヨークの学生たちは、現地でオートクチュールコレクションを見るチャンスにも恵まれ、そこで彼女は、バイアス・カット(布を斜めにカットして仕立てる方法)の技術に衝撃を受けることになります。
パリでは貴重な経験をして、その経験をアメリカに持ち帰りますが、彼女はその後、フランス・クチュールからは心が離れていくことになります。
クレア・マッカーデル パーソンズ卒業後
1929年に、クレア・マッカーデルは、パーソンズを卒業します。
卒業後は、短期の仕事を渡り歩き、その後ファッションデザイナーのアシスタントの仕事を得ました。
更にハッティー・カーネギーの下で、ドレスデザイナーとして働くようになりますが、そこでは成功はしませんでした。
カーネギーの顧客に、彼女のデザインは受け入れられなかったのです。
顧客は、もっとフランスのクチュール的な、手の込んだ手法を施した洋服を望んでいたのです。
しかし、それは同時に、マッカーデルのスタイルとは異なっていました。
そのことに気づいた後、彼女はカーネギーの元を離れると同時に、フレンチ・ファッションの影響からも決別することにしました。
そして時は流れ、第二次大戦が勃発し、多くの産業が打撃を受ける事態になりました。
ファッション産業では、フランスで衣類の生産が滞るようになり、これがアメリカのファッションに転機をもたらすことになります。
アメリカ人は、自分たちで衣類を生産しなくてはならなくなり、また戦乱の中、人々がクチュールより機能的デザインのものを好む傾向が強まったことで、マッカーデルは、精力的にファッション業界で働いて、自分のアイデアを形にしていくことになりました。
皮肉にも、戦乱の時代が、彼女のキャリアにスポットライトを当てることになったのです。
そこから、マッカーデルの快進撃が始まります。
ブランド「クレア・マッカーデル」
1945年に戦争が終わる頃には、デザイナー・マッカーデルの名前は全米で広く知れ渡っていました。
1940年には自身のブランド「クレア・マッカーデル」を立ち上げて、瞬く間に人々に受け入れられることになり、その後は多くの賞を受賞することにもなりました。
同時に彼女は、パーソンズに戻り、今度はファッション評論やインストラクターのコースで勉強を続けました。
アメリカでは急速に「フレンチ・ファッション離れ」が起きており、全米では、「アメリカン・ルック」という機能的な既製服を促進するキャンペーンが大々的に行われ、マッカーデルがその運動を先導しました。
マッカーデルは、引き続き「デイリー・ユース」をコンセプトに、機能的で動きやすいスタイルを次々に提案、バレエシューズをカジュアルウェアに取り込んだり、女性用のズボンにポケットを付けるなど、実用主義に徹しました。
また、着心地を追求するために、積極的に新しい布や素材も取り入れました。
そういった中で、スタイリッシュなスポーツウェアも生まれていったのだと思います。
ファッションショーでも次々に新作を発表していましたが、1958年、53歳の若さで、ガンにより亡くなりました。
マッカーデルは、今にまで繋がる実用主義的ファッションを明確に定義づけ、その後もマッカーデルに影響を受けたデザイナーが次々に現れ、そのスタイルを継承し続けています。